かなすぎの備忘録

ただの備忘録です。SNSのスピード感にふさわしくないことを書きます。

「正しさ」に惑わされないために。

こんばんは。

最近、テレビをつければ新型コロナウイルス関連の報道ばかりですね。少なくとも私にとっての「日常」はすでに失われているし、不安を煽るような報道が多いなぁと、個人的には思ってます。

 

あくまで一般論ですが、元来私たちは未知のものに対して好奇心、あるいは(かつ)恐怖心を抱く生き物です。今回のウイルスの場合、放っておいても後者を抱く人が多いのは当然のこと。その上、メディアがこれだけ特集を組めば、「よくわからないけどヤバいのはわかる」みたいな感じになるわけです。もちろんこのウイルスはヤバいのかもしれない。

ただ一方で、恐怖心に支配されてしまうと、「正しさ」の皮をかぶった極端な語り口に惑わされやすくなるような気もしています。今回はそういうことについて考えたことを記録しておきたいと思います。

 

www.jiji.com

 

先日から議論されていたことではありますが、休業要請に応じず営業を続ける業者は公表するそうです。

そもそもなぜこんな話になるのかというと、厚労省の専門家の方々によれば、このウイルスは感染して症状が出ても誰にもうつさない場合もあれば、無症状で複数人にうつしてしまうこともある。ということは、複数人にうつすこと、集団(クラスター)感染を防げれば、爆発的な流行は起きない。よってクラスター感染を防ぎましょう、人が集まることはやめましょうということになるわけですよね。その政策の一環として休業要請が出されるのはよくわかる。

 

www.mhlw.go.jp

(このサイトのPDFの図がシンプルでわかりやすいです。)

 

ただ、この国家によって行われた休業「要請」が、民衆によって事実上「命令」化される事態が起きています。

 

 

「敵」だとか「ゲシュタポ」というのは言葉が強い気もしなくもないですが、営業すること=絶対悪だと思っている人もいるというのは、まぎれもない事実でしょう。なんなら「人殺し」とすら思っているのかもしれない。

さらに厄介なのは、こういう人たちの言っていることは「正しい」からです。クラスター感染を起こせばたくさんの人に感染が広がり、たくさんの人が死ぬことだってあり得る。その機会を作り出す可能性を減らさない=営業することは、人命を危険にさらす「悪」だと考える。

でも、ここでいったん立ち止まって考えたいのは、営業しないことが原因で死ぬことになりかねない人だっているから、仕方なく営業しているというケースだって十分考えられませんかね、ということです。もちろんコロナウイルスが原因で死ぬ人はいるけれども、収入が断たれてどうしようもなくなり死ぬ人だっているでしょう。生活保護があるじゃないかという声もありますが、個人的には機能していないと思っています。(これについては日を改めて書く機会をと。)生きるために泣く泣く店を開けて、危険を承知で営業を続けている業者をつぶしにかかって、なんになるのか。コロナで死ぬか、金で死ぬか、どちらも嫌がることが「正しい」ように、私には思えてしまうところがあります。

 

ということで、結局お前は何を言いたいのかというと、ウイルスを怖がるあまり、民衆同士で「正しさ」をつきつけあうのはやめたほうがよいのではないかということです。営業を止めてもらうためにも、潤沢な資金投入を国家に求めていくしかないのです。国家には国民を守る義務があるのですから。もちろん、そこには無駄が出てしまうこともあるでしょう。本当に困っている人以外にもお金が渡ることもあるでしょう。でも、それは「仕方のない無駄」なのでは。

日本では近年、とにかく無駄を省くことが善でした。「身を切る改革」を訴える政党、PDCAサイクルを福祉分野にまで適用する行政、成果主義を教育分野に適用する首長。こういうことが支持されて、行われてきたわけです。そしてこれからもしばらくはもてはやされるでしょう。(私はこういう主張が苦手ですが。)

これまでの「日常」で、これからの「日常」で、頑張って無駄を省くんですから、この「非日常」の事態が起きた時ぐらいは無駄があったっていいじゃないか、と思ってしまうのは、私が甘っちょろい、温室育ちな人間だからですかねぇ。でも、そう思われても別にいいよと思ってしまうくらい、この民衆同士の叩き合いは虚しい結果しかもたらさないような気がしています。

以上、一面的な「正しさ」を盲目的に信じ込まないように自戒しなければと思わされることが多い、このウイルスに関する話題でした。こんな偉そうなことを書いている私もただのど素人ですしね。

 

ではでは。