かなすぎの備忘録

ただの備忘録です。SNSのスピード感にふさわしくないことを書きます。

「現在の自分」が「過去の自分」を引き受けること。

こんばんは。

 

先日、中学生の頃にちょくちょく遊んでいたメンバーのグループLINEが久々に動き、なんだかんだでご飯を食べに行ってきました。こんな時期にけしからん、と言われてしまうかもしれませんが、私個人は複雑な立場をとっているので(私のTwitterを見ている人にとっては繰り返しになりますが、私が仮に一人暮らしだったならば「コロナで死ぬ前に経済で人が死ぬ!」などといって積極的に個人経営の飲食店を利用していたでしょうし、現実は祖母と同居していることからなるべく外出しないことが求められる。どちらの理屈も「正しい」と同意しつつ、その狭間で生きています。)、お許しいただきたいところです。

率直なことを言うと、私はその会が楽しみでもあったのは事実ですが、それ以上に怖くもありました。でもそれは(少なくとも表面上は)杞憂に終わりました。そのなかで過去の自分と現在の自分について少し考えたので、書き残しておきたいと思います。

 

そのグループの中に、私が個人的に苦手だなと思うようになってしまった人がいました。いつからかははっきりしないですが、少なくとも高校に入ってからは苦手だったはず。今でもまだまだ人間ができていないですけど、高校の頃の私は(特定の人々に対して)より一層クズだったので、その人と極力接触しないようにしていたし、何度か話すこともあったかとは思うのですが、その時も嫌悪感をそれとなく出していた気がしています。仲の良い友達にはその人が苦手だという話も普通にしていました。

その人を苦手になった理由はその人の持つ強さ(当時は攻撃性と思っていました。)が嫌になってしまったからなんですけど、今になってみれば「お前はヘタレだ」と何かにつけてグサッと指摘されていた(特に中学時代)だけのことで、その自分の弱さを直視したくなかっただけなんですよね。私だけに対して強い言葉を投げていたわけでもなく、その人の強さは高校に入ってからも小耳にはさんでいた話から鑑みるに良くも悪くも(この点は「悪くも」の方が多めだと今でも思っていますが笑)変わらず、平等だった。いやはや、お恥ずかしい。

 

なにはともあれ、こんな経緯があったので、正直その人と会うのが怖かったわけです。過去の自分のふるまいを現在の自分が反省していたとて、それはあくまで私自身の中で完結している行為であり、相手に伝わるなんて道理はない。ましてや嫌われていたとしても文句を言える立場にない。全ては過去の自分のふるまいのせいなのだから。まあこのことを頭ではわかっていても、やはり面と向かって会うとなれば相手からの攻撃的な雰囲気を感じたくないと思ってしまうあたりが、私のダメさなんですがね。

しかし、すでに述べた通り私の思いは見当違いでした。月並みな言い方ですけど、その人はかなり丸くなっていた、といったところでしょうか。高校時代のことも、私の空気感が伝わらずにすんだのか、はたまた伝わっていたけれども気づいていないふりをしてくれたのか、どちらにせよ感謝しなければと思いますが、「かなすぎなんて高校に入ってからは多分一言も話してないよね、クラスも違ったし」と笑いながら言っていました。私はそれに自然に返せたのか自信はないですけど、とりあえず自然に笑うことはできたはず。

 

今こうしてこの文章を書きながら、私は怖がりながらも行ってよかったなと思っています。その理由の根幹はここにちゃんと書くとあまりに夢物語で、あまりにダサくなってしまう気がするので心の中にとどめておきますが、ざっくり言うと人とのつながりが私たちの世界を守り、私の世界を守ることになると考えるようになったからです。あと自分とは異なる世界を生きている人たちの話を聞くのが普通に楽しかったです。ここはハスってもしょうがないので。

結局のところ、過去の自分があまりにクズであったがために会うことをためらってしまう人なんて小学生のころから数えればたくさんいるわけですけど、それでも私は私の思う理想のために「過去の自分」を引き受けなければならないわけです。引き受けたうえで「現在の自分」として機会があればためらわずに会う。その中で「過去の自分」がしたことによる負の印象を「現在の自分」がどれだけ正の印象へ転化できるのか、そこが勝負なんだと思います。そしてこの話は、私個人のレベルとして話しているからこの程度の話で終わっていますけど、これを国家レベルの話に引き上げれば各国家の歴史認識の問題にも援用できるんだろうなあと勝手に妄想しています。その話はまたいつか。

 

とはいえ、そんな人たちと会う機会は極めて少ないし、そんな機会ばかりというのも何かが壊れてしまいそうなので、私とよくつるんでいる皆さん、自粛すんのかクラスターフェスすんのかよくわかんねえ奴だな、とか思うかもしれませんが、なにかあれば誘ってください。笑 家族の空気感を伺いつつ、何かしらのアクションを起こします。

 

それでは。

またひとつ年をとりました。

こんばんは。

いやぁ、本日5月30日、22歳になってしまいました。特にめでたいとも思えなくなってきてしまったんですけど、家族や友人から祝われるとなんとなく実感がわくものですね。ありがとう。

そんな区切りの日なので、思い切ってここ数年ずっと考えていることをまとめて書いておこうと思います。

 

私の基本的認識として、人間は弱い生き物だと思っています。しょうもない話ですけど、例えば僕は昨日、「明日こそは卒業論文に使う文献を読むぞ!読むぞ!」と思っていましたが、結局昼間は大学の課題をやって、午後から床屋に行き、ふらっと本屋に立ち寄って本棚を眺めて回り、帰ってきて風呂に入り美味い飯を食べて今に至るわけです。(現在21時26分)

本当にしょうもねぇなぁ、と思っていらっしゃるでしょう。笑 もう少しスケールの大きな話にしてみます。

2000年代に入ってから脚光を浴びた学問の一つに、行動経済学というものがあります。

 

www.abef.jp

 

大竹文雄さんの書いている岩波新書の『行動経済学の使い方』が面白かったです。)

あくまで素人の理解ですが、要するに従来の経済学の理論は、「人間は消費において常に合理的に行動する」という前提に立っていたわけです。純粋な数理モデルでしかなかった。それに対して行動経済学は「そんなわけねえだろ」と経済学者と心理学者が冷静にツッコミを入れていたんですけど、それに光が当たったのがやっとこさ2002年だったというね。

ここで「冷静にツッコミを入れていた」と書いたのは、改めて考えてみると、こんな話は大学で経済学を学んでいようがいなかろうが関係なく私たちにもわかる話だと思うからです。

宝くじの話なんてのは有名ですよね。期待値からすると買うのはバカなわけです。でも、私個人としては、宝くじを買う人に向かって「バカだ」という人こそどうなんだろう、という思いに駆られるんですよ。そりゃ宝くじを買うくらいですから「当たったらいいなぁ」≒「お金が欲しいなぁ」と思っていますよ、たぶん。お金が欲しいなら、他のギャンブルの方がよっぽどマシ。でも、人間ってそういうもんじゃないから、「夢」を買うぐらいのことをしないと活力が出ないときもある弱い生き物だから、非合理的な行動をとる。「夢」に細かい計算なんて似合わないですから。

 

まあ何が言いたいかというと、人間なんてものは完全に理性に従って行動することなんざできない生き物なんだと私は思っているということです。人間は弱い。誰でも間違える。心に芽生えた小さな悪意に負けてしまうことだってあるし、悪意によって自分は何も悪くないのに、あたかも自分が悪いように思いこんでしまい、傷つけられてしまうこともある。

そんな前提に立って社会を見渡すと、なんとなくみんなに対して優しくなれる気がしています。もちろん良いことは良い、悪いことは悪いと言うべきなんですよ。たまに勘違いされるんですけど、「優しい」ということと「甘い」「なれ合い」といったことは違うので。でも、それを言う時に優しさがあれば、それが言い方に反映されると思うんです。

昨今のギスギスしがちな世の中で、私も怒りを前面に出してしまうことがありますが(○○な人が総じて本当に嫌い、などとつぶやいていて、翌朝本当に後悔しました。苦手ぐらいでとどめておけばよかった。)、そこはまだまだ人間ができていないということなんだと自戒しています。

 

ということで、22歳の抱負は「弱さゆえの優しさを身につける」ことにします。ダメ人間の私ですが、このような抱負を掲げていることからわかるように相変わらずダメ人間のままだと思いますので、どうかご容赦を。22歳の私とも今までと変わらず付き合ってほしいと勝手に思っています。よろしくです。

「正しさ」に惑わされないために。

こんばんは。

最近、テレビをつければ新型コロナウイルス関連の報道ばかりですね。少なくとも私にとっての「日常」はすでに失われているし、不安を煽るような報道が多いなぁと、個人的には思ってます。

 

あくまで一般論ですが、元来私たちは未知のものに対して好奇心、あるいは(かつ)恐怖心を抱く生き物です。今回のウイルスの場合、放っておいても後者を抱く人が多いのは当然のこと。その上、メディアがこれだけ特集を組めば、「よくわからないけどヤバいのはわかる」みたいな感じになるわけです。もちろんこのウイルスはヤバいのかもしれない。

ただ一方で、恐怖心に支配されてしまうと、「正しさ」の皮をかぶった極端な語り口に惑わされやすくなるような気もしています。今回はそういうことについて考えたことを記録しておきたいと思います。

 

www.jiji.com

 

先日から議論されていたことではありますが、休業要請に応じず営業を続ける業者は公表するそうです。

そもそもなぜこんな話になるのかというと、厚労省の専門家の方々によれば、このウイルスは感染して症状が出ても誰にもうつさない場合もあれば、無症状で複数人にうつしてしまうこともある。ということは、複数人にうつすこと、集団(クラスター)感染を防げれば、爆発的な流行は起きない。よってクラスター感染を防ぎましょう、人が集まることはやめましょうということになるわけですよね。その政策の一環として休業要請が出されるのはよくわかる。

 

www.mhlw.go.jp

(このサイトのPDFの図がシンプルでわかりやすいです。)

 

ただ、この国家によって行われた休業「要請」が、民衆によって事実上「命令」化される事態が起きています。

 

 

「敵」だとか「ゲシュタポ」というのは言葉が強い気もしなくもないですが、営業すること=絶対悪だと思っている人もいるというのは、まぎれもない事実でしょう。なんなら「人殺し」とすら思っているのかもしれない。

さらに厄介なのは、こういう人たちの言っていることは「正しい」からです。クラスター感染を起こせばたくさんの人に感染が広がり、たくさんの人が死ぬことだってあり得る。その機会を作り出す可能性を減らさない=営業することは、人命を危険にさらす「悪」だと考える。

でも、ここでいったん立ち止まって考えたいのは、営業しないことが原因で死ぬことになりかねない人だっているから、仕方なく営業しているというケースだって十分考えられませんかね、ということです。もちろんコロナウイルスが原因で死ぬ人はいるけれども、収入が断たれてどうしようもなくなり死ぬ人だっているでしょう。生活保護があるじゃないかという声もありますが、個人的には機能していないと思っています。(これについては日を改めて書く機会をと。)生きるために泣く泣く店を開けて、危険を承知で営業を続けている業者をつぶしにかかって、なんになるのか。コロナで死ぬか、金で死ぬか、どちらも嫌がることが「正しい」ように、私には思えてしまうところがあります。

 

ということで、結局お前は何を言いたいのかというと、ウイルスを怖がるあまり、民衆同士で「正しさ」をつきつけあうのはやめたほうがよいのではないかということです。営業を止めてもらうためにも、潤沢な資金投入を国家に求めていくしかないのです。国家には国民を守る義務があるのですから。もちろん、そこには無駄が出てしまうこともあるでしょう。本当に困っている人以外にもお金が渡ることもあるでしょう。でも、それは「仕方のない無駄」なのでは。

日本では近年、とにかく無駄を省くことが善でした。「身を切る改革」を訴える政党、PDCAサイクルを福祉分野にまで適用する行政、成果主義を教育分野に適用する首長。こういうことが支持されて、行われてきたわけです。そしてこれからもしばらくはもてはやされるでしょう。(私はこういう主張が苦手ですが。)

これまでの「日常」で、これからの「日常」で、頑張って無駄を省くんですから、この「非日常」の事態が起きた時ぐらいは無駄があったっていいじゃないか、と思ってしまうのは、私が甘っちょろい、温室育ちな人間だからですかねぇ。でも、そう思われても別にいいよと思ってしまうくらい、この民衆同士の叩き合いは虚しい結果しかもたらさないような気がしています。

以上、一面的な「正しさ」を盲目的に信じ込まないように自戒しなければと思わされることが多い、このウイルスに関する話題でした。こんな偉そうなことを書いている私もただのど素人ですしね。

 

ではでは。

はじめに。

こんばんは。はじめまして。

こちら、ただの備忘録です。はじめに、備忘録を作った理由を。

 

私はこれまでにも何度かブログを開設して書いてました。中学生のころとかなかなか書いてました。しかしTwitterをはじめてからというもの、140字の手軽さに良くも悪くもハマった結果、ブログの長さになんとなく面倒くささを感じてしまうようになったんですよね。で、疎遠になってたんです。多少モヤモヤして長めに書きたいことができたらスレッドでつなげりゃいいし、みたいな。

でも、SNSってあっという間にあらゆることが流れていく(流れてしまう、と言った方が私の価値判断的にはふさわしいかもしれません)のも事実だと思うようになったんですよ。これは別に自分で気づいたなんてことではなく、何かの本か記事か信頼している人のTwitterかなにかでそういう内容のことが書かれていて、それに共感しただけなんですけれども。

ということで、私の中でこれについては考えたことをまとめておきたい、とどめておきたい、と願うような話題については、ここに書きためていこうと思います。諸般の事情によりたまーにしか書かない、というか書けないですが、ぼちぼち書いていければと。

 

ではでは。